
プラトンの『メノン』における「メノンのパラドックス」およびそのジレンマ、ポランニーの「暗黙知」の概念について
メノンのパラドックスと想起説(プラトン『メノン』)
古代ギリシアの哲学者プラトンの対話篇『メノン』には、「メノンのパラドックス」(探求の逆説)と呼ばれる有名な問題提起があります。メノンはソクラテスに対し、「人は知っていることは探求する必要がないし、知らないことは何を探せばよいか分からないので探求できない」 (Plato’s Meno | Internet Encyclopedia of Philosophy)と述べます。要するに、「知らなければ(何を知らないかも分からないから)問うことができず、知っていれば問う必要がない」というジレンマです。このパラドックスは、未知のものをどのように学び得るのかという認識論上の難問を端的に示しています (Plato’s Meno | Internet Encyclopedia of Philosophy)。プラトンはこの難問に答えるために、独自の解決策である「想起説」を対話篇の中で提示します (Plato’s Meno | Internet Encyclopedia of Philosophy)。
プラトンの想起説とは、人間の魂は不死であり、生まれる前の段階で既にあらゆる事柄を知っているため、学習とは過去世で得た知識を想い起こす(想起する)ことに過ぎないという考えです (Plato’s Meno | Internet Encyclopedia of Philosophy)。ソクラテスは無学の奴隷に対し、幾何学の問題を一切教えずに適切な質問だけを投げかけることで、奴隷自身に正解を導かせる実験を行いました(奴隷の対話) (Plato’s Meno | Internet Encyclopedia of Philosophy)。この有名な場面は、明示的に教えなくとも人の魂の中に真理の種(潜在的知識)があり、適切な問いかけによってそれが想起され得ることを示すエピソードです。実際、ソクラテスの一連の質問によって奴隷は自力で答えに到達し、その過程で「未知のもの」を発見できることが示されます (Plato’s Meno | Internet Encyclopedia of Philosophy)。プラトンによれば、このように我々は完全な無知と完全な有知との中間状態にあり (Plato’s Meno | Internet Encyclopedia of Philosophy)、部分的な知識(真なる思い込み)を手がかりに探求を進めることで学習が可能となるのです (Plato’s Meno | Internet Encyclopedia of Philosophy)。こうしてメノンのパラドックス(「学習は不可能ではないか」という疑問)は解消されます。プラトンの想起説は、後の哲学で言う生得的観念(先天的に備わった知識)の一例とも位置づけられ、経験によらない知識の源泉を示す理論として古代から現代まで議論の対象となっています (Plato’s Meno | Internet Encyclopedia of Philosophy)。
マイケル・ポランニーの「暗黙知」の概念
20世紀の科学哲学者マイケル・ポランニーは、著書『暗黙知の次元(The Tacit Dimension)』などで「暗黙知」(Tacit Knowledge)の重要性を説きました。ポランニーによれば、人間の知識のうちには言語や記号で明示的に表現できない部分が存在します。彼は「人間は、言葉で言い表せる以上のことを知っている」と述べ (The tacit dimension of knowledge — Being-Here)、知ること(knowledge)の多くは文章や図像で完全には伝達できない暗黙の次元を含むと指摘しました (The tacit dimension of knowledge — Being-Here)。例えば、自転車の乗り方や楽器の演奏、顔認識の感覚などは、詳細な手順を全て言語化することが難しく、本人が体験的・直感的に身につけている知識です。ポランニーはこのような暗黙知が科学者の実験技能や職人の技芸にも含まれると論じ、科学的知識でさえも完全に明文化できない個人的(パーソナル)な要素を持つとしました (The tacit dimension of knowledge — Being-Here)。実際、「あらゆる知識は暗黙知であるか、あるいは暗黙知に根ざしている。完全に明示的な知識は考えられない」とまで述べられています (The tacit dimension of knowledge — Being-Here)。つまり、我々が明示的に言語化できる知識(形式知)であっても、その背景には言語化されない直感やコツが支えており、暗黙知は全ての知識の土台にあるという主張です (The tacit dimension of knowledge — Being-Here)。
知識の獲得と伝達においても暗黙知は大きな意味を持ちます。ポランニーは、暗黙知の習得には教科書を読むだけでは不十分で、実践を通じた学習(経験的な習得)が不可欠だと考えました (The tacit dimension of knowledge — Being-Here)。この点で彼の考えは「習うより慣れよ」という経験則と一致します。例えば、自転車乗車のコツは実際に乗って転びながら覚えるものであり、口頭の説明だけでは身につきません。同様に、熟練職人の技能や研究者の勘は、徒弟制度のように師匠と弟子の密接な関わり合いの中で初めて伝承できるとされます (The tacit dimension of knowledge — Being-Here)。ポランニー以降の研究者も、暗黙知の共有には人間同士の直接的なコミュニケーションや信頼関係が重要であり、単なる情報の伝達では不十分だと指摘しています (The tacit dimension of knowledge — Being-Here)。実際、専門分野における知識はマスター(熟練者)とアプレンティス(見習い)の対話や共同作業を通じて受け継がれる場合が多く、そうした場で初めて暗黙のコツ・美意識・判断力が伝えられるのです (The tacit dimension of knowledge — Being-Here)。このようにポランニーの暗黙知の概念は、知識が単なる明文化された情報以上のものであり、身体化された技能や経験に支えられていることを明らかにしました。知識の獲得には単なる記憶や論理だけでなく、暗黙の要素を引き出すような実践的訓練が必要であり、知識の伝達にも文章や講義だけでなく共同の経験が不可欠であることを示唆しています。
類似の問題意識を持つ哲学思想(西洋・東洋)
プラトンの提起した「未知のものをいかに知りうるか」「知識はいかにして可能か」という問題意識は、その後の西洋哲学や東洋思想にも形を変えて現れています。以下では、アリストテレス、カント、禅仏教を例に、それぞれが知識や悟りの問題にどう取り組んだかを概観し、共通点と相違点を整理します。
アリストテレスの視点: 経験と知性による知識獲得
プラトンの弟子であるアリストテレスは、師の想起説とは異なる立場からこの問題に取り組みました。彼は生得的な観念を否定し、人間の心は白紙のような状態(タブラ・ラサ)から出発すると考えます。つまり、知識は生まれつき備わっているのではなく、感覚経験を起点として徐々に形成されるという立場です。実際アリストテレスは、「我々の知的な状態(知識)はあらかじめ決まった形で生得されているのでも、高次の知識から演繹されるのでもなく、感覚知覚にもとづいて発達するのだ」と述べています (The Internet Classics Archive | Posterior Analytics by Aristotle)。これはプラトンの「魂が前世ですでに全てを学んでいる」という想起説への明確な対抗概念であり、知識の源泉をこの世の経験に求める考えです。もっとも、アリストテレスも知識の成立に何らかの内的能力を認めていました。彼によれば、人間の理性(ヌース)には感覚経験から個別の事例を集積し、そこから共通の本質(普遍概念)を抽出する能力があります (The Internet Classics Archive | Posterior Analytics by Aristotle) (The Internet Classics Archive | Posterior Analytics by Aristotle)。例えば、多くの白鳥を観察することで「白鳥は白い」という普遍的判断が形成されるように、経験の反復から知性が帰納(インダクション)によって一般原理を掴み取るのです (The Internet Classics Archive | Posterior Analytics by Aristotle)。この過程において、知性が最後に得る最初の原理(公理)は他の知識から演繹できないため、アリストテレスは直接知覚された個別から普遍へ上昇する知的直観を想定しました (The Internet Classics Archive | Posterior Analytics by Aristotle)。要するに、感覚的な経験と、それを処理して意味を見出す知的直観(悟性)との相互作用によって人間は新たな知識を得る、とアリストテレスは考えたのです。この立場は、「未知のものをどう知り得るか」という問いに対し、「人間には経験を通じて徐々に理解を深める能力が備わっている」という形で答えるものと言えます。プラトンのような前世からの知識ではなく、現世における経験の積み重ねこそが知識獲得の鍵だとする点で、アリストテレスは師と異なるアプローチを示しました。
カントの視点: 先天的な認識枠組みと経験
ドイツの哲学者イマヌエル・カントもまた、「人はどのようにして新しい知識を得るのか」という問題に独自の解答を与えた人物です。カントは18世紀までの合理論(生得的観念を認める立場)と経験論(知識は全て経験にもとづくとする立場)の対立を調停し、両者を統合する革新的な視点を提示しました。それが「コペルニクス的転回」と呼ばれる考え方で、認識の枠組み(カテゴリーや直観の形式)は人間の心の側に先天的に備わっており、外界の対象は我々の認識枠組みに適合する形で現れるというものです ( Categories (Stanford Encyclopedia of Philosophy) )。カント自身の言葉で言えば、「カテゴリー(悟性の概念)による先天的(アプリオリ)な認識が可能なのは、それらカテゴリーが我々の心の本性に由来し、我々が認識する対象に心がそれを付与している場合に限る」 ( Categories (Stanford Encyclopedia of Philosophy) )ということになります。例えば、「空間」や「時間」といった形式は経験に先立ち心に備わっており、感覚が与える雑多な印象は空間・時間という座標に配置され、さらに因果性や実体性など12のカテゴリーによって整理されて初めて経験的な認識になると考えられました。こうした先天的な認識枠組みのおかげで、人間は単なる経験の寄せ集めを超えて、普遍的で必然的な知識(例えば数学や純粋自然科学の原理)を得ることができます (Kant: Philosophy of Mind | Internet Encyclopedia of Philosophy) (Kant: Philosophy of Mind | Internet Encyclopedia of Philosophy)。カントはこれを「統合的判断(合成的アプリオリ)」の可能性と表現しました。つまり、経験だけに依存しない新たな知見(経験を超えて普遍妥当な真理)がいかにして可能かを説明したのです。彼の答えは、「我々の認識能力そのものが一定の構造(形式)を持ち、その構造自体が経験内容に秩序を与えることで、新たな知識が成立する」というものでした。これはプラトンの想起説に似て生得的な要素の存在を認めつつも、それは具体的な知識そのものではなく知識を成立させるための条件(認識枠組み)である点が異なります。またアリストテレスのように経験を重視しつつも、経験だけでは説明できない普遍性・必然性を人間の心の側の構造によって担保する点にカントの独創性があります。カントにとって知識の獲得は、感性による経験的要素と悟性による先天的構成要素との協同作業なのです。この立場により、彼は「数学や自然科学が成り立つのは、我々の心がそうした構造を世界に読み取らせているからだ」と説明し、経験論と合理論双方の長所を取り入れた新たな認識論を打ち立てました。もっとも、カントは同時に「我々の認識枠組みに捉えられないもの(いわゆる物自体)は認識不可能である」とも述べ、認識の限界も指摘しています。この点で、後述する禅の思想(言語を超えた真理への言及)とも通じるものがあると言えるでしょう。
禅仏教の視点: 悟りと直接的な伝達
東洋思想に目を転じると、禅仏教においても「言葉で説明できない知(悟り)」を重視する点で類似の問題意識が見出せます。禅宗の伝統には「教外別伝」(教えの外に特別の伝えあり)や「不立文字」(文字に立てず)といったモットーがあり、究極の真理は経典や論理によってではなく師から弟子への直接の心法の伝授によって伝えられるとされます (Zen’s Four Mottos and the Poetic Language | Zhi | Asian Culture and History | CCSE)。これはすなわち、悟り(真の知恵)は言語化・概念化できないという立場です。禅の開祖達は、公案(パラドックスな問答)や黙想などの手法を通じて弟子に直観的な悟りを体得させようとしました。例えば、初祖菩提達磨は「以心伝心(心より心へ伝える)」の教えを説き、釈迦が言葉を用いずに花を差し出し迦葉が微笑んだという拈華微笑(花を拈じて微笑す)の故事は、有名な非言語的悟りの伝達の象徴です (Flower Sermon - Wikipedia) (Flower Sermon - Wikipedia)。禅において悟りとは、本来誰もが備えているとされる仏性(ブッダとしての本性)に目覚めることだと考えられます。これは「悟りは外から新たに得られる知識ではなく、自己の本性を直観することで初めて開花するものだ」という意味で、プラトンの想起説と通じる発想とも言えます。実際、禅の師家は弟子に悟りの内容を教義として教えることはしません。むしろ、公案によって弟子の論理的思考を行き詰まらせたり、日常の作務や座禅によって思考を超えた境地に導いたりすることで、言語を超えた直接体験を促します。このようにして得られる悟りの知は説明不能であるがゆえに「不可説不可説」(言い表せない)とも形容されます。禅の思想は、知識の伝達について「文字や論理に頼らず、個別具体の働きかけによって心から心へと伝える」という独特の方法論を発展させました (Zen’s Four Mottos and the Poetic Language | Zhi | Asian Culture and History | CCSE)。これはポランニーの指摘した暗黙知の伝達(徒弟的な直接指導の重視)にも通じるものがあります。一方で、禅が目指す悟りは論理的な理解を超越した存在の次元での大転換であり、西洋哲学が議論する命題的知識とは性格を異にしています。しかし「最も大切なことは言葉では教えられない」という点において、禅は知の不思議と限界について独自の洞察を提供していると言えます。
各視点の比較: 共通点と相違点の整理
以上見てきたプラトン、アリストテレス、カント、ポランニー、禅仏教の視点には、それぞれ独自の主張がありますが、「人はいかにして未知の事柄を知りうるか」「知識や真理はどのように獲得・伝達されるか」という根本問題に対する共通の関心が流れています。同時に、その答え方には重要な相違も存在します。以下に主な共通点と相違点を整理します。
内在するものへの着目: プラトンと禅仏教は、真理(知識・悟り)がもともと内在していることを強調します。プラトンは知識の種を不死の魂に、禅は仏性として一人ひとりの中に認め、学習や修行はそれを引き出す(想起・開悟する)プロセスだとみなします。この点で「学ぶ」ということは新たに獲得するというより潜在していたものに気づくことと捉えられています (Plato’s Meno | Internet Encyclopedia of Philosophy) (Flower Sermon - Wikipedia)。一方、アリストテレスやポランニーも、人間には生得的な認知能力や身体的技能が備わっている点は認めています(アリストテレスの知性、ポランニーの身体知など)。カントもまた認識枠組みという形で内在的要素を前提します ( Categories (Stanford Encyclopedia of Philosophy) )。このように多くの思想家が「人間の内には何らかの形で知の源泉が潜んでいる」という共通認識を持っています。ただしそれを何と見るかは様々で、イデアの記憶(プラトン)、理性のカテゴリー(カント)、直観的悟性(アリストテレス)、身体化された技能(ポランニー)、仏性(禅)といった違いがあります。
経験・実践の重視: アリストテレスとポランニーは、とりわけ経験や実践を通じた知識形成を重視します。アリストテレスにとって知識は感覚経験の蓄積なしには得られず、理論的認識でさえ経験的事実の帰納に基づいています (The Internet Classics Archive | Posterior Analytics by Aristotle) (The Internet Classics Archive | Posterior Analytics by Aristotle)。ポランニーも知識は暗黙知という形で身体的な経験に支えられているとし、「知るためには行うことが必要」だと述べています (The tacit dimension of knowledge — Being-Here)。禅も座禅や日常生活の実践を重ねる中で直観的悟りが訪れると考えるため、理屈より実行という点では一致しています。プラトンとカントは一見すると理論重視に思えますが、プラトンも対話による探求という実践を通じて想起を促し、カントも経験的直観(感性の与える素材)がなければ知識は成り立たないと認めています。したがって経験と内的能力の双方が知識獲得に必要だという点は、多くの立場に共通するバランスと言えます。
言語化可能性と伝達: 言語による説明の限界にも共通の関心が見られます。ポランニーの暗黙知や禅の悟りは、ともに「言葉で説明し尽くせない知」を念頭に置いています (The tacit dimension of knowledge — Being-Here) (Zen’s Four Mottos and the Poetic Language | Zhi | Asian Culture and History | CCSE)。プラトンも対話篇『第七書簡』で「哲学的真理は書物では伝えられない」と述べたとされ、真理の伝達には単なる言語を超えた方法が必要だと示唆しています。一方でアリストテレスやカントは、論理と言語による明晰な説明を重んじる立場ですが、それでもアリストテレスは熟達者の直観(ヌース)がなければ公理の把握はできないとし (The Internet Classics Archive | Posterior Analytics by Aristotle)、カントは悟性のカテゴリーそのものは経験から説明できない先天的前提だとしました ( Categories (Stanford Encyclopedia of Philosophy) )。つまり、完全に言語化・理論化できない要素が知の根底にあることは、暗に認められているのです。知識の伝達について見ると、プラトンは対話と問答という方法を用い、カントは教育論で「単に教え込むのではなく考える力を養う」ことを重視しました。ポランニーは師弟の共同作業、禅は不立文字の直接伝達を説き、いずれも単なる情報伝達以上の深いコミュニケーションを通じて知が受け渡される点を強調しています (The tacit dimension of knowledge — Being-Here) (Zen’s Four Mottos and the Poetic Language | Zhi | Asian Culture and History | CCSE)。
未知のものへのアプローチ: 最後に、「未知のものをどう知りうるか」への回答の違いをまとめます。プラトンは「既知」(魂に内在するイデアの記憶)を想起することで未知を知るとし、アリストテレスは未知なる普遍を経験から一般化することで知るとしました。カントは心の中のカテゴリーを用いて経験を構成することで、新たな認識(未知だった事柄の理解)を可能にすると説明しました ( Categories (Stanford Encyclopedia of Philosophy) )。ポランニーや禅は、未知の真理は理屈ではなく体験や直感によって掴み取るものだと考えます。これらはアプローチこそ異なりますが、「人間は全くの無から知を生み出すのではなく、何らかの手がかり(先天的要素、経験、直感など)を活用して未知に迫る」という点で共通しています。言い換えれば、「無知の無知」ではなく「既知と未知の間」に人間は立っている (Plato’s Meno | Internet Encyclopedia of Philosophy)との認識が共有されているのです。プラトンはそれを魂の予備知識と捉え、アリストテレスは感覚的知覚と知性の働きと捉え、カントは認識能力の構造と捉え、禅は仏性と師の導きと捉えました。それぞれ表現は違えど、「人間には未知を知り得る潜在力が備わっている」という楽観と、「その力を引き出すには適切な方法がいる」という洞察において大きな思想的連続性が認められます。
まとめると、プラトンのメノンのパラドックスからポランニーの暗黙知、さらにはアリストテレス・カント・禅仏教に至るまで、知識のパラドックスと向き合った思想は多様ですが、一見バラバラな議論の中にも共通するテーマがあります。それは「人間はいかにして(そしていかに上手に)物事を知り、他者に伝えることができるのか」という問いです。ある者はそれを想起と呼び、ある者は経験知や直観と呼び、ある者はカテゴリーや暗黙知、悟りと呼びました。それぞれの哲学的解答は時代や文脈によって異なりますが、互いに照らし合わせることで、知識の成立と伝達に関する人類の知恵が多角的に浮かび上がってきます。今なおこのテーマが議論され続けるのは、知とは何かを問い続けること自体が私たちの知的探求の原動力だからにほかなりません。 (Plato’s Meno | Internet Encyclopedia of Philosophy) (The tacit dimension of knowledge — Being-Here)