現実よりも虚構のほうが実は重要なんじゃないか、二次元でいい、という宣言(電波男)が積極的になされてしまったのが2000年代だとすると、10年代は虚構が現実の方にやってきてよりごっちゃになっていく時代です。だからといって、技術的部分からの発想だけで、情報を現実にインポーズしたところで、反対に体験の情報量を減らすだけでなく、質をも悪化させることになります。
シュタイナーがアカシックレコード、ディックがヴァリスと呼び、仏教では虚空蔵と呼ばれた、すべての記憶が蓄えられているという想像上の場所が、無線回線とIT、ARの力で現実になりつつあります。無限の記憶にアクセスできるという虚空蔵求聞持法を習得した空海の力を、ただの一般人の私たちが持つことになったしまったのですから大変です。かつては何年、何十年の準備をして、ようやく許された力だったのですから。
このような力と付き合うためには、今でも(神秘主義でないにしても)人文の側の発想が、技術側の発想以外に必要です。それは便利なだけでなく、人間の人間的な部分を揺さぶり、人々が大切にしていた部分を変えてしまうものでもあるからです。AIBOやQURIOを作った、ソニーの土井利忠(天外伺朗)氏、ジョブズやメディアラボの伊藤穰一氏が、皆神秘主義を経由しているのは偶然ではないのです。
物理学者から哲学者になった大森荘藏は、世界は自然科学の扱う物理現象の世界(密画的世界)と意識や感情をともなう人間的世界(略画的世界)の重ね合わせとして把握されるべきである、というようなことを言っています。(*)単に主観世界、客観世界という意味ではなく、お互いに矛盾することもありうるコスモロジーを同時に運用すべきである、という意味です。 犬の世界が視覚と嗅覚の世界の重ね合わせであるように、人間の世界も、物理現象の世界に文化や宗教の世界が無意識的に重畳され、バックグラウンドで処理されています。
ユングが旅をしてプエブロ・インディアンを訪ねて行ったときのことである。インディアンたちは、彼らの宗教的儀式や祈りによって、太陽が天空を運行するのを助けていると言うのである。「われわれは世界の屋根に住んでいる人間なのだ。われわれは太陽の息子たち。そしてわれらの宗教によって、われわれは毎日、われらの父が天空を横切る手伝いをしている。それはわれわれのためばかりでなく、全世界のためなんだ」とインディアンの一人は語った。彼らは全世界のため、太陽の息子としての勤めを果たしていると確信している。これに対して、ユングは次のように『自伝』のなかで述べている。
「そのとき、私は一人一人のインディアンにみられる、静かなたたずまいと『気品』のようなものがなにに由来するのかが分かった。それは太陽の息子ということから生じてくる。彼の生活が宇宙論的意味を帯びているのは、彼が父なる太陽の、つまり生命全体の保護者の、日毎の出没を助けているからである」河合隼雄 イメージの心理学
もちろん、自然科学的には太陽の運行と彼とは無関係ですし、これを思い込みと切り捨ててしまうのは簡単ですが、彼の略画的コスモロジーにおいてはそうではないし、そうでない部分こそが重要なのです。文学と人間が略画的部分なしに成立し得ないように、未来のICTは意識の略画的部分への配慮が不可避になると僕は思っています。そうでなければ、「悪魔が支配する主観的領域で、それが乱暴狼藉を働」き(パウリ)、手におえないような世界に、我々は直面してしまうでしょう。
(目に見える簡単な算数と合理主義だけで社会を設計する試みは、個人から国家までのあらゆるレイヤーですでに何度も行われていますが、ほとんどが完全な失敗に終わっています。また、ネットもその草創期の理想に反して、人々の相互理解を阻み、「乱暴狼藉を働く」方向に進みつつあるようにも見えます)
これから10年をかけて普及していくだろうGoogle Glass的デバイスとARの役割は、翻訳や道案内といったものだけでなく、合理的であるように見えて、本当は単に一面的でしかない表現を補うように、 これまで共同体や宗教などで共有されていた目に見えない了解や、 敏感な人が無意識的に溜め込んでいた部分、神話的世界などを、デジタイズして可視化することではないかと思うのです。ingressは間違いなく、よってこの辺りの話を通じやすくしました。
例えば遠野物語のような民族学的空間は、我々が普段みている空間よりも間違いなく豊かです。略画的空間が意識と無意識によってあらかじめ強化されてると考えると、テクノロジーは逆に人間の体験を狭めてきたのです。これまでのテレビ、ビデオゲーム、スマホといった流れとAR・google glass的デバイスが、僕には質的に異なるようにみえるのは、AR技術は失ったものを再度取り戻すきっかけに使えるように見えるからです。そして、そうした発想でARと視覚空間がデザインされなければ、それはただ騒がしく、気を散らす空間になってしまいます。マーカーにかざすと絵が出る、というのはおそらくARの最もどうでもいい部分なのです。
僕達のYesterscapeにはいろんな根がありますが、そのひとつは失われていたものを再度テクノロジーによって取り戻したいというものです。デジタルになって失われたアナログ写真の依代や、つながりを取り戻したいと考えているのです(この辺は前に詳しく触れました) また、それは写真術以前のカメラでもあります。銀塩写真がなくて、アカシックレコードにアクセス出来るならばそうだったんじゃないかというカメラだからです。被写体がかつて確かに存在した場所で、同じ空間の同じ光を感じ、過去を追体験・想起できるはずです。でもYesterscapeがカバーできるのは、記憶と体験のレイヤーの一部です。その他の部分については僕達の今後の課題ですが、もうすぐ、ネタ的アプリだけどちょっと深いARアプリを発表します。
このYesterscapeの前身は15年くらいまえにフランシス・イエイツや鎌田東二、イーフー・トゥアンなどを読みながメディアアートとして構想されました。(当時はソリッドなジャイロやGPSの利用などが現実的ではなかったので企画止まりでした。)アルゴリズムを考えたり特許をだしたりしはじめたのはiPhoneを初めて買って実現性に気づいた2008年ですが、一週間後にセカイカメラが発表されたりw、二人で作ったはずの会社が一人になったり、いろいろいろいろ時間がかかってしまいました。昨年の春にパブリッシュしたバージョンは完成度が低かったのですが、これまでにかなり良くなってきました。
(*)知の構築とその呪縛