やがて滅びるというテレビについて

テレビはなんだったか

Netflixのタイミングで、再びテレビの未来が議論されるようになりました。
ですが、ユーザーの時間の使われ方や、ライフスタイル、コンテンツの質などの問題から論じられていることが多いように見えます。
例えば3時間並んで食べるラーメンは足りなくなったカロリーを補うためのものではありません。今の「Netflixがテレビを殺す議論」にはこれに似たところがあります。もちろんコンテンツの視点だけで見るなら完全な間違いではないのですが、最も重要な部分に無頓著であるように見えます。
最も重要な部分というのは、「テレビがどんな機能を担っていたか」という視点です。
13年前に代理店の友達のために書いた(そして2008年ごろまで営業に使ってた)「広告の未来」をここ一ヶ月の仕事の関係で読み返す機会があって(我ながら先見性があると思ったので)リライトというよりはブログ用に焼き直してみました。当時のものはここに置きました。

テレビはどう体験されていたのか?

テレビが番組を楽しむため、コンテンツを享受するために使われていたのは確かですが、それ以外の部分こそがテレビの特別な部分だったのです。それは、多くの人が同時に同じ体験をしているという確信です。お茶の間の一台のテレビから、一人に一台の時代になってもそれは変わりませんでした。核家族化や一人部屋によって一人でテレビに対峙することになっても、同時視聴の連帯感は何千万もの人が同時視聴しているという確信によって却って強められていたのかもしれません。

受け手達同士が、互いに知ることなしに密かな連帯感によって結びついて(・・・)
自分が孤立しているわけではなく、同じようにこの情報を受け取っている無数の仲間があることについての確信によって埋め合わせられている
「電子(電気)メディアに先立つ段階においてはコミュニケーションの伝達時間は、コミュニケーションの相手(他者)の現前/非現前(不在)の区別-要するに相手との距離-と、対応していた。伝達時間がゼロである(ゼロにきわめて近い)ということは、他者が自己に対して直接に現前しており、ごく親密な領域(身近)の内部にいるということを表示していた」(大澤真幸)

東京ラブストーリーの時代には「月曜9時には町からOLがいなくなる」と言われていたそうです。みんながこの時間に見ているという幻想そのものがドラマの魅力を強化していたのでした。いえ、本当はファッションや並んで食べるラーメンと同様、このコミュニケーションの幻想そのものを消費していたのでしょう。

テレビに代わって

ビデオの登場はテレビのリアルタム性への確信をそれほど傷つけることはありませんでしたしが、インターネットの即時性とコミュニケーション機能は、これまで人々のコミュニケーション欲求を目立たない形で満たし、目立たないからこそ特権的だったテレビのコミュニケーション機能をより理想的な形で置き換え始めました。以前は「寂しいから」テレビをつけ、コミュニケーション作用によって満たされた寂しさは、今はSNSが満たしてくれるのです。(地デジ化によって生じたタイムラグもその神秘作用を傷つけたのではないかとちょっとだけ思います)

テレビはどうすればいいの?

おそらく、「寂しいから」テレビをつけてくれる時代はもう来ないでしょう。テレビが(そしてCMが)コミュニケーション欲求を主に満たす時代も。
テ レビが20年前のような力を持つことはもうないでしょう。それでも「みんながリアルタイムで見ている連帯感」さえあれば、まだテレビは見られる、のだということは朝ドラや下町ロケットが証明していいます。本当はあんまり面白くないあまちゃんがあれほどウケたのは、twitterで感想を書くためで、ラピュタが見られるのもバルスの連帯のためなのです。
これまでのように「美味しい、効率のいい」環境ではありませんが、リアルタイム性とそれが生み出す連帯感にこそテレビの生き残る道はあるのではないかと思います。
(ラジオの視聴者が増えているのは、ラジコ以外にリアルタイム性への確信と話者の現前性なのでしょう。)

フジテレビは気づいてるのか?

と書いていたところで、今日のニュースで、フジテレビが「フジは毎日生放送15時間!目ン玉飛び出る4月改編」というニュースがありました。以前にもフジは生番組にこだわっていくということを言っていたので、気になっていたのですが。テレビのラジオ化としては正しいアプローチに思えます。