「読書」カテゴリーアーカイブ

2016年に読んだ200冊の本の中でものすごく面白かった本ベスト3

2016年にアマゾンから買った本は175冊でした。引っ越ししたり、いろんなことがあって、今年は少なめでしたが、オフで買ったのも合わせると200冊ちょっとでした。

その中で特別に面白かったのを何冊か紹介します。

「ヌメロ・ゼロ」

ウンベルトエーコ

薔薇の名前や「フーコーの振り子」の作者として有名な、哲学者で小説家で記号論学者でもあるウンベルト・エーコの遺作です。その前のプラハの墓地よりも遙かに気軽な短編で、嘘とちょっとした戯れが大事件につながっていくという運びはフーコーの振り子やほかの作品とも重なる部分もあります。「完全言語の探求」みたいな凄い本とは比べられないですが、特に日本ではタイムリーな出版だった気がします。

「まず、ありきたりの意見を紹介し、次のもう一つの意見を、記者の考えに非常に近い、より論理的な意見を紹介すること。こうすれば、読者は二つの事実を情報として得た印象を持つが、実際にはそのうちのひとつだけを、より説得力のあるものとして受け取るように仕向けられるわけです。」
「この四つの記事のどれも、特に読者の関心を引くモノではないが、四つをひとつにまとめると、どうしても目をとめてしまう。」

DeNAの例の事件や新聞や、手慣れたtwitter論者のタイムラインでよく見かける手法が書かれたりもしていて楽しめます。つい最近もテレビ局や新聞が使っていることで話題になりました。手違いとか誤解だった振りをしていますが、ゲッベルスに学んだメディアがどれだけ意識的にこの手のことを仕掛けているかについてはもう少し知られてもいいですよね。

ある島の可能性 (河出文庫)

ミシェル・ウェルベック

フランスでイスラム政権が誕生し、国教がイスラム教になった未来を書いた服従が2015年に大騒ぎになりました。内容だけでなく、発売日にシャルリーの襲撃事件が起きたことでも。それから数年で世界の雰囲気は大きく変わってしまいました。当時アイム・シャルリーと言っていた人たちのどれだけの割合の人が、今でも同じことを無邪気に言えるでしょうか?

「ある島の可能性」は、もっと長い時間での意識の変化を扱います。
永遠に生きられるようになったポストヒューマン(ネオ・ヒューマン)の主人公ダニエル24(24番目の体)25と、現代に生きているポストヒューマン以前(変な言い方ですが)の同じダニエル1の手記とが交互に並列されて進みます。
政治的正しさとは無縁でありながら、文学的で人間的であるダニエル1の主観的世界と、同一人物ではありながら、長い時間と生物学的改良を経て、そうした人間的感情を理解できず、重要だとも考えていないポストヒューマンの観察によって描かれているものは、とても冷酷、というか露悪的なものです。
他の本もそうですが、周囲にあまり本を読む人がいないので、僕は案内もなく漫然と読んでいるのですが、この本が出版されたのは2005年、僕はつい最近の読者です。
それでも何年か前のデビュー作の「素粒子」に描かれたEPR相関(あとで書きます)にハッとさせられて、2015年に「地図と領土」を読んでからは一気にコンプするくらいはまってます。何が面白いのかはうまく説明できないのですが、(というより反感を買わずにうまく説明できないのかも)トランプもBrexitも服従の読後にはあまり不思議なことには思えなくなりますし、人間のあり得べき未来もあり得るべきでない未来も、イーガンとは違う形で予言されているとも言えます。

クリングゾールをさがして

ホルヘ・ボルピ

ウェルベックの「素粒子」は、EPR相関にインスパイアされています。この本は「素粒子」とほとんど同時に出版された本で、やはりEPR相関が登場します。

ある粒子の運動量と位置を同時に確定することはできない、そしてそこに隠れた変数などはないのだ、という不確定性原理が正しいのであれば、ある時点で二つに分裂した粒子はどうなのか。たとえばある粒子が二つに分裂したとするならば、それぞれの粒子が全く同じ物質ならば、両方の運動量は同じになる。片方で運動量を、もう一方で位置を測定すればいいではないか。それとも、片方を測定した瞬間に、たとえば分裂してから百光年離れた彼方で、光速を超えてそれが確定するとでも言うのか?

というのが量子力学の不確定性を受け入れられなかったアインシュタイン・ポドルフスキー・ローゼンの思考実験でした。

僕は、高校生くらいの頃図書館で見つけた量子と混沌 (地人選書)という本で、EPR相関を知ったのでした。ほぼ同時に読んでいたフレイザーの金枝篇とリンクして非常に強い印象を受けたのを覚えています。金枝編は人類学の本ですが、そのときに印象に残ったのは、あるものの属性は別のあるものに感染呪術によって転移させることができる、そしてその影響は、離れていても続くのだ、という部分です。

EPR相関もラッセルのパラドックスもゲーデルの不完全性定理も、人間の原始的な部分が感応するし、だから面白いのですが、ソーカル事件のせいか、ニューエイジのうさんくささのせいか、ゲーデルや量子力学の話を思想的に扱おうとすると、プロ理系とプロ文系の両方に馬鹿にされてしまうようです。
そういえば、最近ソーカルの弟子が思弁的唯物論を掲げて、ちょっと話題にもなったのも日本では2016年なのでした。「有限性のあとで」も2016年に勢いで買った本の一つですが、これはいらない本でした。筆者の言う、「相関主義を克服した科学」なんてものが、いったいどこにあるのかと。(ブラウアーやゲーデルを無視してカントールを援用するあたりはソーカルの再来みたいに見えます)

話がそれました。
「クリングゾールをさがして」は、クリングゾールという仮名がつけられた、ナチスの顧問科学者を探す、いわば探偵小説です。クリングゾールは実在するのか、それとも架空の存在なのか。主人公のフランシス・ベーコン(同姓同名)は、ドイツに渡って、アンチナチスの数学者の協力を受けて、ハイゼンベルグやボーア、パウリなどそうそうたる物理学者へのインタビューをし、正体を突き止めようとします。インタビューや背景にはゲーム理論や相対性理論、不確定性原理や、不完全性定理が練り込まれます。

’’仮に、ゲーデルの定理に従って、いかなる公理系も論証不能の命題を含むのであれば、仮に、アインシュタインの相対性理論に従って、もはや絶対的な時空が存在しないのであれば、仮に、量子力学に従って、もはや科学は宇宙の曖昧で不確かな概要を与えるものでしかないなら、仮に、不確定性原理に従って。もはや因果関係が未来を確実の予言するために役立たないのであれば、そして仮に個々人が個々の真実を持っているだけなのであれば、そのときには、原子と同じ物質で形作られた私たちは皆、不確かさでできあがっている。私たちはパラドックスと不可能性の結果である。・・・”

上でも触れましたが、こうしたものはニューエイジで不幸な扱われしまったせいか、必ずうさんくさくなってしまいます。それでもこの「うさんくささ」を扱えるから、小説は価値があるのです。
やはり今年読んだいま世界の哲学者が考えていることがちょっと退屈なのは、「学者」の考えたことを書かなければならないからなのでしょう。(恐ろしいことに、この本に登場する小説家はアシモフくらいです)意識や生物としての人間の未来を考える際に、イーガンを出せないほどサニタイズされなければならない「雰囲気」はどうにかしないと。

ソーシャルネットの生態系に適応してニュースが扇動的になり、バズるためにフェイクを混ぜ、一方視覚体験も自由に捏造できるようになり、ビッグデータと機械学習は一年でこれまでの数十年以上の進歩が起きている時代です。それなのに、意識の方は全然準備ができていません。そういう意味で、ピックアップした本はポスト真実の時代に、そこそこぴったりな気がしてきました。

アフィリエイトもかねて10冊くらい挙げようとおもってたんですが(タイトルも釣りっぽいですが)一区切りついたので。
最近初めて知った野崎まど、とか芝村裕吏とかもかなり面白かったんですが、また今度。