「不安な個人、立ちすくむ国家」に書かれていない部分について

遅ればせながら、「不安な個人、立ちすくむ国家」をゆっくり読んでみました。
「ペーパー」への批判として良く目にしたものに、「具体性がない」「社会システムと政治がごっちゃになっている」「少子化の問題をについて触れられてないから失格(*)」また、「(生きがいや目標について)「人それぞれでしょう」の様なものがありました。これらについて、ペーパーに書かれていない部分について、そしてちょっと思いついたことなどについて書いてみたいと思います。
僕は有識者に挙げられている大澤真幸さんと鈴木健さんの本をちょっと読んだことがある程度で、出席した誰かに知り合いがいるわけでも何でもないので、全然見当違いかもしれませんが。

かつて、人生には目指すべきモデルがあり、 自然と人生設計ができていた。政府は個人の人生の選択を支えられているか?について

これは大きな物語のお話です。大昔は宗教や「家」、大戦中は「大君」という、有識者の一人の大澤氏の言葉で言えば「第三者の審級」がありました。自分の外側に自分を見守り、あるいは批判する大きな視点があったのです。

良いかどうかは別として、少なくとも第三者の審級があれば迷わずに不安を持たずに生きることが出来たのです。その後は、家族や個人などの小さなスケールでも「家父長的なもの」や「信念」「(性別)らしさ」などは「合理的でない(w)」「政治的に正しくない」とされ、人生の目標や基準点として採用することを批判されるようになりました。

確かに、これらはいずれは克服されなければならない課題だったのかもしれませんが、それを切り捨ててしまうには、今のわたしたちには時期尚早だったのでしょう。その失敗は今更の原理主義やナショナリズムや排外主義的なリベラルの台頭、生硬なシステムとして現れています。

例えば、「生の価値」という曖昧なものをはかる基準が無いので、わかりやすいもので計られることになります。それによって、例えば、終末期医療においては、

「生きている時間が長い」>「生きている時間が短い」

という「定量的」な基準によって人間的ではない延命治療が機械的に適用されてしまうのです。

ナショナリズムの台頭

ネグリとハートの言う、「帝国」とはグローバルなコミュニケーションと人々を支配する構造のことです。「帝国」では、あらゆる差異や対立を商売にしてしまう資本主義の支配に対抗できるのは、人種や宗教を超えた連帯であるとされます。

本書が書かれた90年代はそのような展望を持てた時代でした。インターネットが出来てから、私たちがずっと夢見てきたものです。あらゆる人とつながるネットワークはあらゆる人との共感のネットワークをつくり出すことが出来るのではないかと想像したのです。

有識者のもう一人、鈴木氏はなめらかな社会とその敵のなかで、「友と敵」をなくせるのではないかと考えています。彼によれば、敵とは生物の発生の歴史的偶然によって生まれたものです。資源を奪い合うための仕組みとして自然発生したものであり、理性によって解消できるものだと考えているのです。

しかし、私たちはfacebookもtwitterが、連帯や共感よりも「友と敵」の間の対立を生み出し、先鋭化させてしまうことに気づきました。EUは失敗し、フランスでもアメリカでもナショナリズムが台頭しています。

現代社会は客観的に見れば、スケールフリー(**)の秩序である。ところが、しばしば、その内部に生きる個人は、主観的には、自分自身が内属している世界を、格子グラフのようなものとして思い描く。つまり、(心理的に)ごく近しいものとの間でだけ、宿命的で本来的なつながりを持っている、というイメージを世界に対して投影することになる。これこそが、現代的ナショナリズムである。
新潮 2017年 06 月号 [雑誌]

 

2017年の今、他社への寛容を支える哲学の原理は家族的類似性くらいしか残っていない。あるいは「誤配」ぐらいしか残っていない」
ゲンロン0 観光客の哲学

上は大澤氏、下は東氏の言葉ですが、二人ともグラフ理論のスモールワールド性に可能性を見いだしています。つまり、それでも、「あらゆる人が六人を介してつながっているように」共感し、連帯できるのではないかというものです。

小さな共同体について


大きな共同体における紐帯は民族主義や宗教ではあり得ません。価値観や宗教や信条など、私的な部分を大きな共同体の中で普遍的なものにすることは出来ないからです。ローティーはそうした私的部分は私的領域にとどめ、互いに認められる部分だけを認め合い、互いに矛盾する私的部分と公的な部分の矛盾を「アイロニーの意識」として持ちつつも、共感の力で連帯できるのだ、と言います。
また、その上で、

パットナムの考えでは、こうした民主主義は「社会関係資本」の支えを必要としている。社会関係資本とは、社会的・政治的信頼感や様々な種類の対人的なつながりのことである。それは、一緒にピクニックに行ったりボウリングを楽しんだりする親密な交流を通じてのみ、維持される。つまり市民参加の民主主義は、濃密な対面的・直接的交流を通じてのみ、そしてそのような交流が可能な小さな集団の中でのみ可能だという結論に至る
不可能性の時代

この部分は大澤氏、東氏いずれも共通の前提であり、上にも書いたように、お二人はその上で大きな共同体での連帯の可能性を見いだしています。
ですが、芸能人や政治家の私的問題での炎上や、家族内、会社内の暗黙の約束に、「大きな共同体の審級」がのっぺりと適用されてしまう現在、それも難しいように思えます。

しかし、全く希望がないわけではありません。もし、どうしても出来てしまう構造が、何百年も持続している木星の大赤斑や、ヘリウムしかない太陽や、茶碗の中にさえ生成されてしまう散逸構造(****)のようなものであるなら、それは友でも敵でもないのかもしれません。散逸構造においては、その名の通り境界は曖昧です。構造を形成する成分の出入りは自由です。そうしたものとして小さな共同体をたくさん擁した大きな社会を作ることが出来るなら、ペーパーで提示されていることは実現しやすいのではないでしょうか。

(*)「少子化」について
「2060年には」などと言われますが、「現在の医療水準をそのまま、出生率を一定に」2060年まで線を引いたものを信じて、「移民受け入れ」などと言うよりは、コンピューターの中に意識を移植する可能性や、人間が200年生きられるようになった時の問題(医療水準が進歩すると、少子化どころか、地上に人が多すぎることの方が問題になります)を検討する方が科学的にマシに思えます。このペーパーについて言えば、「少子化対策について触れられてないから失格!」と切り捨てるよりは、考えられる部分の対策をしておけば良いのです。

(w)合理性は「ある恣意的なシステム」の中でしか成立しない場合が多く、「非合理的」という批判自体が理に合ったものでない場合の方が多かったりします。便利な言葉ですが。

(**)スケールフリー性は、社会学をはじめとするこれまでの研究により、現実世界のネットワークで幅広く観察されている。例えば、人々の持っている知人関係の数をみると、一部の人は非常にたくさんの知人を持っているが、大多数の人々の知人の数は限られている。WWWではごく少数の有名サイトが数百万単位のリンクを集めているが、大多数のサイトはわずかなリンク先からしかリンクされていない。生体内の相互作用でも、ごく一部のたんぱく質が多数のたんぱく質と反応する構造になっている。男女の性的関係でも、ごく一部の人は何百人という相手と関係するが、大多数の人々は限られた相手としか関係を持たない。(Wikipedia)

(****)散逸構造とは、熱力学的に平衡でない状態にある開放系構造を指す。すなわち、エネルギーが散逸していく流れの中に自己組織化のもと発生する、定常的な構造である。イリヤ・プリゴジンが提唱し、ノーベル賞を受賞した。定常開放系、非平衡開放系とも言う。
散逸構造は、岩石のようにそれ自体で安定した自らの構造を保っているような構造とは異なり、例えば潮という運動エネルギーが流れ込むことによって生じる内海の渦潮のように、一定の入力のあるときにだけその構造が維持され続けるようなものを指す。
味噌汁が冷えていくときや、太陽の表面で起こっているベナール対流の中に生成される自己組織化されたパターンを持ったベナール・セルの模様なども、散逸構造の一例である。またプラズマの中に自然に生まれる構造や、宇宙の大規模構造に見られる超空洞が連鎖したパンケーキ状の空洞のパターンも、散逸構造生成の結果である[1]。
散逸構造系は開放系であるため、エントロピーは一定範囲に保たれ、系の内部と外部の間でエネルギーのやり取りもある。生命現象は定常開放系としてシステムが理解可能であり、注目されている。
従来の熱力学は主に平衡熱力学を扱うものが中心であったが、定常熱力学が新たに注目を集めている。(Wikipedia)





ジジェクはローティーのモデルをラカンを用いて批判しています。