「不安な個人、立ちすくむ国家」に書かれていない部分について

遅ればせながら、「不安な個人、立ちすくむ国家」をゆっくり読んでみました。
「ペーパー」への批判として良く目にしたものに、「具体性がない」「社会システムと政治がごっちゃになっている」「少子化の問題をについて触れられてないから失格(*)」また、「(生きがいや目標について)「人それぞれでしょう」の様なものがありました。これらについて、ペーパーに書かれていない部分について、そしてちょっと思いついたことなどについて書いてみたいと思います。
僕は有識者に挙げられている大澤真幸さんと鈴木健さんの本をちょっと読んだことがある程度で、出席した誰かに知り合いがいるわけでも何でもないので、全然見当違いかもしれませんが。

かつて、人生には目指すべきモデルがあり、 自然と人生設計ができていた。政府は個人の人生の選択を支えられているか?について

これは大きな物語のお話です。大昔は宗教や「家」、大戦中は「大君」という、有識者の一人の大澤氏の言葉で言えば「第三者の審級」がありました。自分の外側に自分を見守り、あるいは批判する大きな視点があったのです。

良いかどうかは別として、少なくとも第三者の審級があれば迷わずに不安を持たずに生きることが出来たのです。その後は、家族や個人などの小さなスケールでも「家父長的なもの」や「信念」「(性別)らしさ」などは「合理的でない(w)」「政治的に正しくない」とされ、人生の目標や基準点として採用することを批判されるようになりました。

確かに、これらはいずれは克服されなければならない課題だったのかもしれませんが、それを切り捨ててしまうには、今のわたしたちには時期尚早だったのでしょう。その失敗は今更の原理主義やナショナリズムや排外主義的なリベラルの台頭、生硬なシステムとして現れています。

例えば、「生の価値」という曖昧なものをはかる基準が無いので、わかりやすいもので計られることになります。それによって、例えば、終末期医療においては、

「生きている時間が長い」>「生きている時間が短い」

という「定量的」な基準によって人間的ではない延命治療が機械的に適用されてしまうのです。

ナショナリズムの台頭

ネグリとハートの言う、「帝国」とはグローバルなコミュニケーションと人々を支配する構造のことです。「帝国」では、あらゆる差異や対立を商売にしてしまう資本主義の支配に対抗できるのは、人種や宗教を超えた連帯であるとされます。

本書が書かれた90年代はそのような展望を持てた時代でした。インターネットが出来てから、私たちがずっと夢見てきたものです。あらゆる人とつながるネットワークはあらゆる人との共感のネットワークをつくり出すことが出来るのではないかと想像したのです。

有識者のもう一人、鈴木氏はなめらかな社会とその敵のなかで、「友と敵」をなくせるのではないかと考えています。彼によれば、敵とは生物の発生の歴史的偶然によって生まれたものです。資源を奪い合うための仕組みとして自然発生したものであり、理性によって解消できるものだと考えているのです。

しかし、私たちはfacebookもtwitterが、連帯や共感よりも「友と敵」の間の対立を生み出し、先鋭化させてしまうことに気づきました。EUは失敗し、フランスでもアメリカでもナショナリズムが台頭しています。

現代社会は客観的に見れば、スケールフリー(**)の秩序である。ところが、しばしば、その内部に生きる個人は、主観的には、自分自身が内属している世界を、格子グラフのようなものとして思い描く。つまり、(心理的に)ごく近しいものとの間でだけ、宿命的で本来的なつながりを持っている、というイメージを世界に対して投影することになる。これこそが、現代的ナショナリズムである。
新潮 2017年 06 月号 [雑誌]

 

2017年の今、他社への寛容を支える哲学の原理は家族的類似性くらいしか残っていない。あるいは「誤配」ぐらいしか残っていない」
ゲンロン0 観光客の哲学

上は大澤氏、下は東氏の言葉ですが、二人ともグラフ理論のスモールワールド性に可能性を見いだしています。つまり、それでも、「あらゆる人が六人を介してつながっているように」共感し、連帯できるのではないかというものです。

小さな共同体について


大きな共同体における紐帯は民族主義や宗教ではあり得ません。価値観や宗教や信条など、私的な部分を大きな共同体の中で普遍的なものにすることは出来ないからです。ローティーはそうした私的部分は私的領域にとどめ、互いに認められる部分だけを認め合い、互いに矛盾する私的部分と公的な部分の矛盾を「アイロニーの意識」として持ちつつも、共感の力で連帯できるのだ、と言います。
また、その上で、

パットナムの考えでは、こうした民主主義は「社会関係資本」の支えを必要としている。社会関係資本とは、社会的・政治的信頼感や様々な種類の対人的なつながりのことである。それは、一緒にピクニックに行ったりボウリングを楽しんだりする親密な交流を通じてのみ、維持される。つまり市民参加の民主主義は、濃密な対面的・直接的交流を通じてのみ、そしてそのような交流が可能な小さな集団の中でのみ可能だという結論に至る
不可能性の時代

この部分は大澤氏、東氏いずれも共通の前提であり、上にも書いたように、お二人はその上で大きな共同体での連帯の可能性を見いだしています。
ですが、芸能人や政治家の私的問題での炎上や、家族内、会社内の暗黙の約束に、「大きな共同体の審級」がのっぺりと適用されてしまう現在、それも難しいように思えます。

しかし、全く希望がないわけではありません。もし、どうしても出来てしまう構造が、何百年も持続している木星の大赤斑や、ヘリウムしかない太陽や、茶碗の中にさえ生成されてしまう散逸構造(****)のようなものであるなら、それは友でも敵でもないのかもしれません。散逸構造においては、その名の通り境界は曖昧です。構造を形成する成分の出入りは自由です。そうしたものとして小さな共同体をたくさん擁した大きな社会を作ることが出来るなら、ペーパーで提示されていることは実現しやすいのではないでしょうか。

(*)「少子化」について
「2060年には」などと言われますが、「現在の医療水準をそのまま、出生率を一定に」2060年まで線を引いたものを信じて、「移民受け入れ」などと言うよりは、人間が200年生きられるようになった時の問題(医療水準が進歩すると、少子化どころか、地上に人が多すぎることの方が問題になります)を検討する方が科学的にマシに思えます。このペーパーについて言えば、「少子化対策について触れられてないから失格!」と切り捨てるよりは、考えられる部分の対策をしておけば良いのです。

(w)合理性は「ある恣意的なシステム」の中でしか成立しない場合が多く、「非合理的」という批判自体が理に合ったものでない場合の方が多かったりします。便利な言葉ですが。

(**)スケールフリー性は、社会学をはじめとするこれまでの研究により、現実世界のネットワークで幅広く観察されている。例えば、人々の持っている知人関係の数をみると、一部の人は非常にたくさんの知人を持っているが、大多数の人々の知人の数は限られている。WWWではごく少数の有名サイトが数百万単位のリンクを集めているが、大多数のサイトはわずかなリンク先からしかリンクされていない。生体内の相互作用でも、ごく一部のたんぱく質が多数のたんぱく質と反応する構造になっている。男女の性的関係でも、ごく一部の人は何百人という相手と関係するが、大多数の人々は限られた相手としか関係を持たない。(Wikipedia)

(****)散逸構造とは、熱力学的に平衡でない状態にある開放系構造を指す。すなわち、エネルギーが散逸していく流れの中に自己組織化のもと発生する、定常的な構造である。イリヤ・プリゴジンが提唱し、ノーベル賞を受賞した。定常開放系、非平衡開放系とも言う。
散逸構造は、岩石のようにそれ自体で安定した自らの構造を保っているような構造とは異なり、例えば潮という運動エネルギーが流れ込むことによって生じる内海の渦潮のように、一定の入力のあるときにだけその構造が維持され続けるようなものを指す。
味噌汁が冷えていくときや、太陽の表面で起こっているベナール対流の中に生成される自己組織化されたパターンを持ったベナール・セルの模様なども、散逸構造の一例である。またプラズマの中に自然に生まれる構造や、宇宙の大規模構造に見られる超空洞が連鎖したパンケーキ状の空洞のパターンも、散逸構造生成の結果である[1]。
散逸構造系は開放系であるため、エントロピーは一定範囲に保たれ、系の内部と外部の間でエネルギーのやり取りもある。生命現象は定常開放系としてシステムが理解可能であり、注目されている。
従来の熱力学は主に平衡熱力学を扱うものが中心であったが、定常熱力学が新たに注目を集めている。(Wikipedia)





ジジェクはローティーのモデルをラカンを用いて批判しています。

オープンイノベーションのジレンマ


地方自治体から大企業まで、オープンイノベーションイベントが盛況です。

真に新しいアイデアとそれをドライブする力の組み合わせによって世界が変わるのであるなら、個人やスタートアップ、大企業とのパートナーシップは正しいことのように思えますが、実際は困難が多いようです。実際に何件か参加を試みたこともあるので、スタートアップの側から考えてみたいと思います。

「アイデア」とは新しく価値のあるもののことを言う

この記事では「システムとしてのオープンイノベーション」について考えます。もしかしたら「大企業が自分でやると手が汚れる部分をやらせるために会社を買いたい」って理由のオープンイノベーションイベントもあるのだろうと思いますが、ここではまじめな方を考えます。また、「イノベーティブなアイデア」と、その外部のリソースで生まれた大きな現象をオープンイノベーションである、としておきます。エジソンの「1%のひらめきと99%の努力」という言葉(日本では逆の意味に使われますが)のとおりに。

ついでにいうと「アイデアに価値はない。それだけでは何も生まないからだ」という台詞は、アイデアを出せない人のルサンチマンです。「お金には価値はない。それ自体では何も生まない」が、貧者のルサンチマンでしかないように。市場原理においては、モノは希少なほど価値は高くなりますが、希少すぎて流動性が低いと価値を決めにくくなっているだけのことです。

もう少し穏やかな言い方をすると価値のないものや新しくないものを「アイデア」と呼ぶことが間違っているのでしょう。「ワクワクするビジネスをする!」「教育で世界をよくする」「AIで教育をする」「不老ビジネス」などはアイデアではありません。
全く具体的ではない「火星移民」「光の速さを超える」「ドラえもんを作る(本体?それとも四次元ポケットまで含めて?AIも?)」あるいは今更「自転車のハンドルにつける傘を固定する装置」みたいな事を言う人(キャッチフレーズと具体化、レッテルと中身を区別できない人は結構いて、困らされるのも理解できますが)に対しては「アイデアに価値ない」ではなく、「それはアイデアではない」または「そのアイデアは君のものではない」と言うべきなのです。アイデアとは「学習のプロセスで○○を○○し、○○から○○を考えることで、学習効果が上がる」「○○のタンパク質に特異的に結合する○○をもちいて○○すると人間は不老になる」みたいな具体性を伴ったものを指します。

個人におけるアイデアの生成プロセス

アイデア+実行=イノベーションだとして、後半の99%1→100の部分は、僕が得意ではない領域です。たくさんの人を動かし、たくさんのお金を使い、チームが共闘する環境を作れるのは、もちろん卓越した能力をもった人や集団であるはずですが、ここではこの部分は大企業がすでに持っている資質であるとしておきます。(そうでなければオープンイノベーションイベントに参加しようとしないでしょう?)

だからまず、1%の部分、イノベーティブなアイデアについてまじめに考えてみます。僕自身は発明家を自称しているので、「発想法」について聞かれることもありますが、創造的なアイデアを生み出すことができるかどうかは、個人の資質に依存していて、学習によって習得できるのものではないと思っています。
大企業がコストをかけても育たないのなら、やはり学習で習得可能なものではないのでしょう。

それでも、頭の中で働く閃きのプロセスを組織が模倣することもできなくはないような気もしています。創造的ではない個人には無理でも創造的ではない個人の集団には可能かもしれない。

創造的結晶化のプロセス

自己組織化と進化の論理―宇宙を貫く複雑系の法則 (ちくま学芸文庫)に使えそうなモデルがありました。
一万個のボタンとたくさんの糸を用意します。ボタンを二つランダムに選んで、糸で結ぶことを繰り返します。はじめは独立する二つのボタンと糸のクラスターが増えていくだけですが、やがて三つ四つのボタンが結びつけられるようになります。
ボタンと糸の比率を調節していくと、ボタン2個に対して糸1本の比率を超えたとたんに、クラスターの大きさが急激に大きくなります。たくさんのボタンがつながったものが突然たくさん形成されるようになるのです。化学反応の系において、充分多くの反応が触媒作用を受けると、突然系が「結晶化」するのです。こうして生まれた「結晶」は多くが自己触媒システムであり自己維持的であり、生命の起源において、こうしたモデルを採用できるとしています。これが実際の化学的システムの中でうまくいくためには分子の多様性が重要なファクターであるというのもポイントです。

このモデルは、本の中でアイデアの創出について触れられた部分ではありませんが、アイデアが突然生まれる仕組みのアナロジーとして妥当に感じられます。(アタマの中で起こるこれを「創造的結晶化」と呼んでおきます)もしこのようなプロセスを個人の外部で起こすことが出来ればイノベーションのプロセスを組織で模倣できるのかもしれません。
(ニューロンとシナプスがボタンと知識に対応するのか、それとももっと抽象的なレベルのものなのか、また本当にひらめきとともに、これに似た現象が起きたとして、どう意識にすくい上げられ、言葉になるのかなど、曖昧な部分は残ってます)

個人ではなく、組織で「創造的結晶化」は起こせるのか

では、個人の脳内で起こる「創造的結晶化」のモデルを、オープンイノベーションのために集められた個人の集団で起こすことが出来るでしょうか?
さっきの相転移のモデルを集団に移し替えると、ボタンは個人、糸は意思伝達ということになります。ということは、

1)多数の個人
2)頻繁で密なコミュニケーション
3)多様性

があれば、イノベーティブなアイデアは生まれるのかもしれません。
このシステムで創造的結晶化を起こすためには、よく知らない同士がコミュニケーションを密にとる仕組みを作り上げる必要があります。単体の分子が大きければ大きいほど反応の頻度が大きくなるはずですが、これは個人のコミュニケーション能力()と3)多様性に対応するでしょう。(本には脱水や異端分子の挙動などこちらも知的創造のプロセスのアナロジーとして面白い話があるのですが、長くなるので省きます)
イベントを企画するでけではなく、参加者がどれだけ密接なコミュニケーションを行えるかが課題です。ファシリテーターが熱心であれば反応速度を上げられるような気がしますが、どっちにしても創造的結晶化のためのコミュニケーションの構築は一日や二日で実現できるものではなさそうです。
せっかくここまで書いてきましたが、これらのことはSNSのデザインを行う際に考え尽くされたことだろうと気づきました。現在のSNSや社内SNSがオープンイノベーションの場として機能していないなら、もっと違ったものが要請されているのでしょう。
もしかしたらそのための特別なコミュニケーションツールとシステムをデザインすることができるのかもしれません。(TODO)

もうひとつ、創造的で内向的な人はそもそもこういったイベントに参加しない傾向にありますが、もし参加しても外交的な人向けのアイスブレイキングを通過できない可能性もあります。
(僕は飲み会は好きですが、アイスブレイキングからは何度も逃亡しました)内向的な人向けのコミュニケーションデザインには消極性デザイン宣言-消極的な人よ、声を上げよ。……いや、上げなくてよい。が参考になります。

受け手にも準備が必要

”問題とを考察するとは、隠れた何かを考察することだからだ。それはまだ包括されていない個々の要素に一貫性が存在することを、暗に認識することなのだ。
そして私たちが期待している包括の可能性を他の誰も見いだすことができないとき、それは独創的なものになる。偉大な発見に導く問題を考察するとは、隠れている何かを考察することだけでなく、ほかの人間がみじんも考えつかない何かを考察することなのだ。
暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫) 次の引用文も同じ

気を取り直して、個人法人+大企業のシステムとしてのオープンイノベーションの話に戻ります。
イノベーティブなアイデアを持った個人やベンチャーがあり、アイデアを求めている大企業がいたとしてそこでマッチングはうまく成立するでしょうか?
ここにもジレンマがあります。本当に新しいものは準備ができている人にしか理解でないのです。
革新的なアイデアは、その大企業や、他の誰かが見いだせなかったアイデアであるが故に革新的なのですが、だからこそ、共通の文脈を持たない受け手には理解できない場合が多いのです。
さらに、これを募集企業の側に理解しやすく、大量の応募を効率よく処理しようとすると、

内容を台無しにするたぐいの「明示性」を持ち込むことに

なります。

オープンイノベーションの現場でよく見られるフォームは次のようなものです。

【FAQ1】 どのような問題や課題を解決するサービスでしょうか?
【FAQ2】 誰のためのものですか?
【FAQ3】 サービスの競合はいますか?また競合に対する優位性について。

「イノベーション」の文脈でこれらを問うのはとても皮肉なことです。
なぜなら、これらに詳細に答えらればられるほど、イノベーティブなものではない、ということになるからです。
FAQ1
電話や自動車や飛行機が発明されたときに、この問いに答えられたでしょうか?WindowsもMacもドローンもYoutubeも、ブログもSNSもtwitterもSnapChatも、そしてネットスケープさえ、このような問いに答えられなかったでしょう。

FAQ2
「みんなのものです」と答えてやる気がないと思われるよりは「私立中学の受験を控えつつ、恋愛にも興味を持つ12歳の男の子のためのものです」と答えた方が、問いに対する答えとしてはましに思えてしまいます。

FAQ3
いま競合がいるようなアイデアなら、イノベーティブじゃないんじゃないでしょうか。

このテンプレはあらゆるところで見かけます。確かではありませんが、出所はYCombinaterじゃないかと思うんですが。違いました。リーンスタートアップですね。問題はこんなテンプレを利用するような側に新しいことを受け入れる準備ができているのか、ということです。
上にも書いたように、革新的であればあるほど、問いに対して曖昧な回答しかできなくなるからです。
添削してみましょう。

FAQ1 どんなサービスまたはプロダクトですか? それについてのあなたの仮説を聞かせてください。
FAQ2 市場規模は大きいんですよね?
FAQ3 弊社の既存のリソースで市場を確保できますか?特許は出願していますか?

知財の権利が守られないかも

応募する個人やスタートアップは何を期待しているのでしょう。おそらくビジネスを度外視した応募は少ないはずです。だからよく見かける次のような契約は致命的です。



この段階でスタートアップは参加をあきらめるべきです。
アイデアをもったイノベーターにとってはアイデアは商品であり、大手がノウハウを握ってリソースで勝負をかけてきたらその時点で終わりなのですから。

好意的に見るなら余計な手間を省くためのもので、アイデアや著作物について適用するつもりはない、ということになるのでしょう。それでもあまりに応募者への配慮を欠いているように見えます。佐野氏の事件もDeNAの事件も、オリジナリティや個人の知的生産活動の価値を不当に安く見積もったことから起きているのです。

また、実際に協業が決まった場合にどのような報酬や出資が得られるのかについても明確で無いことが多いようです。

2年後の追記(以下はいい試みに思えましたが、採択者からは、あとから=大企業病的な壁にぶつかってしまった、と聞きました。残念。)
それに比べるとリクルートのSPAACは、スタートアップ側の権利が守られている点、資金提供や出資が明示されている点はとてもフェアであるように思います。また、継続的にスタートアップと企業側をフォロー、ファシリテートしコミュニケーションさせられる場(PAAK)を持っている点でも有利です。(実際PAAKはそんな感じの場になりつつある気もしています)
(Spaacはまだ途中なのと、僕はPAAKの会員で客観的でないかもしれませんが)

またこれも実際の現場の話なんでつまらないことなんですが、イベントによっては、物見遊山の社員とか、外注先探してるだけの人がいたりして、ミスマッチも多くあります。

結論

ちょっとイベントやったくらいではイノベーションはおきない。
特に創造的でない人々の寄せ集めでも、社内だけでやるよりは多様性があるので、コミュニケーションの設計によってはイノベーションがおきるかもしれない。でもそれは長時間かけて継続的にファシリテートしないと難しい。
スタートアップや個人のアイデアを期待するなら、権利と報酬を明確にした上で、代行会社任せにせず、社内でイノベーティブなアイデアを取捨選択できる素養のある、真剣な人間を用意する。求めているものが何か明確でないのなら、応募フォームはフレキシブルなものにすべき。

PS
ほぼ書き終わってから見つけた「オープンイノベーション白書」は良かったです。最初の図面はこちらから転載してます。

HoloLens開発をMacで


Mac+VMWareでもできました。

HoloLensを持ち運ぶようになって、リュックを使わなきゃならなくなった上に、Windowsノートまで合わせると12kg、家とオフィスとPAAKを周回する生活を送っているので、ちょっとこれはつらい。

最初はMacのUnityでもできるんじゃないの?と思って試したのですが、ダメでした。
これが出てこないのです。


ググってみつけたのはPalallelsを使うこちら。
HoloLensアプリをMac環境で開発・実機で動作確認
Palallelsも家のiMacにはインストールしてあるんですが、ノートにはVMWare(Fusion)しか入れてないし、この中で環境を整えていたので、なんとかVMWareで使えないかとトライしてみました。
VisualStudioのインストールには苦労しました。途中で止まってしまうのです。最初は原因がわからなかったのですが、ディスク容量の不足によるものだったみたいです。
これを回避するにはVMWareの設定画面で容量を増やし「事前にディスク容量を割り当てる」にもチェックしておきます。
ただ、このままだとWindowsの中に新しいパーティションができただけで、Cドライブの容量は増えないので、パーティションを統合する必要があります。
パーティションサイズを増やすと、すんなりインストールできました。(Macと違ってWindowsは簡単にはパーティションサイズを変えられないのでMinitools Partition Magicを使いました。)

HoloLensの接続とデバッグは、USBでもWifiによるRemote Machineでもいけます。

DevicePortalもMacからもWindowsからも接続できます。ただ、ストリーミングはWindowsのみ。HoloLensのIPアドレスの設定が出ない場合や、環境によって変わってしまったたときはDebug>Project名 Propertiesから設定します。

まとめ

  • ディスクはあらかじめ割り当てる
  • 割り当てたディスクはもとのパーティションと統合する
  • USB接続もRemote Machineでワイアレスデバッグもできる
  • IPアドレスが変わったときはDebug>Project名 Propertiesから設定
  • Holographic Remoting Playerは今のところうまく動きません。
  • 最新MBPでもやっぱり遅い

HoloLens買って考えた、2020年SNSの終わり


PAAK。このゲームでは、部屋をスキャンして、家具の配置によって登場人物の姿勢や配置が変化します。

2000年代のSNSの、本来そうであったであろう以上の大成功の理由は、コンテンツよりもスマホという媒体によるものではないかと、HoloLensを使いながら考えました。

人から数十センチの距離は、親密(intimate)な距離(*)と呼ばれています。この領域にスマホが入り込んでしまったせいで、スマホによって与えられるあらゆるモノが、あらかじめ親密なモノとしてタグ付けされてしまっているのではないかと思うのです。スマホはメディアであると同時にメディアのメディアでもありますが、いつの間にか、片時も手放すことのできないものになってしまっています。
人はスマホを手放すことに不安を覚えるようになり、シェアされたニュースを信じやすくなり、記事と広告の区別をつけられにくくなっています。密接距離の内側、親密な人だけが入り込むことのできる領域でメディアとのコミュニケーションが行われることで、本当はそうであるよりも重要なものだと誤認されてしまうのです。(Intimateには性的なニュアンスもあります)

距離の近さがコミュニケーションを親密なものと誤認させる

来たるべきARメガネの時代は、物理的存在としてのスマホは姿を消します。(初期はスマホと併用でしょうが)コンテンツが目の前にあるという点では、未来になっても大きな変化はないかもしれませんが、その方がたくさんの情報を俯瞰できるからと言う理由で、その距離はパーソナルスペースの外側になるはずです。

HoloLensでオブジェクトを置く距離は85cm以遠が推奨されている。

という仮説が正しければ、人々は再びそうあるべき態度でメディアやコンテンツと接するようになるのでしょう。
そして、特に大きな影響を受けるのは、誤認によって最大のメリットを享受してきたSNSやLine的コミュニケーションやメルカリなど(またはソシャゲ)です。(もちろん、人々はつながり、話をし、写真を見せ合うでしょうが、今のような憑かれた感じは無くなります)

そんな時代にどんなコミュニケーションがデザインできるのか、失われる生態系の代わりにどんな生態系を考えるのか、facebookが気づいてないだろう、新しい生態系でどんなアプリやビジネスモデルがありうるのか、などを考えるのは非常に楽しい作業でした。これはHoloLensを買ったおかげです。

もちろん、VRもARもずっと期待して待ちわびてきた側としてはHoloLensによるMRもテレプレゼンスも、情報としては想像通りではありますが、実際にいじってみると触感はいろいろ違います。(しかもUnityでの開発の容易さ)このプロトタイプの延長線上に未来はあります。

HoloLensおすすめです。

(*)(日本語訳では密接距離と訳されていますが、親密という言葉を使いました。)

2016年に読んだ200冊の本の中でものすごく面白かった本ベスト3

2016年にアマゾンから買った本は175冊でした。引っ越ししたり、いろんなことがあって、今年は少なめでしたが、オフで買ったのも合わせると200冊ちょっとでした。

その中で特別に面白かったのを何冊か紹介します。

「ヌメロ・ゼロ」

ウンベルトエーコ

薔薇の名前や「フーコーの振り子」の作者として有名な、哲学者で小説家で記号論学者でもあるウンベルト・エーコの遺作です。その前のプラハの墓地よりも遙かに気軽な短編で、嘘とちょっとした戯れが大事件につながっていくという運びはフーコーの振り子やほかの作品とも重なる部分もあります。「完全言語の探求」みたいな凄い本とは比べられないですが、特に日本ではタイムリーな出版だった気がします。

「まず、ありきたりの意見を紹介し、次のもう一つの意見を、記者の考えに非常に近い、より論理的な意見を紹介すること。こうすれば、読者は二つの事実を情報として得た印象を持つが、実際にはそのうちのひとつだけを、より説得力のあるものとして受け取るように仕向けられるわけです。」
「この四つの記事のどれも、特に読者の関心を引くモノではないが、四つをひとつにまとめると、どうしても目をとめてしまう。」

DeNAの例の事件や新聞や、手慣れたtwitter論者のタイムラインでよく見かける手法が書かれたりもしていて楽しめます。つい最近もテレビ局や新聞が使っていることで話題になりました。手違いとか誤解だった振りをしていますが、ゲッベルスに学んだメディアがどれだけ意識的にこの手のことを仕掛けているかについてはもう少し知られてもいいですよね。

ある島の可能性 (河出文庫)

ミシェル・ウェルベック

フランスでイスラム政権が誕生し、国教がイスラム教になった未来を書いた服従が2015年に大騒ぎになりました。内容だけでなく、発売日にシャルリーの襲撃事件が起きたことでも。それから数年で世界の雰囲気は大きく変わってしまいました。当時アイム・シャルリーと言っていた人たちのどれだけの割合の人が、今でも同じことを無邪気に言えるでしょうか?

「ある島の可能性」は、もっと長い時間での意識の変化を扱います。
永遠に生きられるようになったポストヒューマン(ネオ・ヒューマン)の主人公ダニエル24(24番目の体)25と、現代に生きているポストヒューマン以前(変な言い方ですが)の同じダニエル1の手記とが交互に並列されて進みます。
政治的正しさとは無縁でありながら、文学的で人間的であるダニエル1の主観的世界と、同一人物ではありながら、長い時間と生物学的改良を経て、そうした人間的感情を理解できず、重要だとも考えていないポストヒューマンの観察によって描かれているものは、とても冷酷、というか露悪的なものです。
他の本もそうですが、周囲にあまり本を読む人がいないので、僕は案内もなく漫然と読んでいるのですが、この本が出版されたのは2005年、僕はつい最近の読者です。
それでも何年か前のデビュー作の「素粒子」に描かれたEPR相関(あとで書きます)にハッとさせられて、2015年に「地図と領土」を読んでからは一気にコンプするくらいはまってます。何が面白いのかはうまく説明できないのですが、(というより反感を買わずにうまく説明できないのかも)トランプもBrexitも服従の読後にはあまり不思議なことには思えなくなりますし、人間のあり得べき未来もあり得るべきでない未来も、イーガンとは違う形で予言されているとも言えます。

クリングゾールをさがして

ホルヘ・ボルピ

ウェルベックの「素粒子」は、EPR相関にインスパイアされています。この本は「素粒子」とほとんど同時に出版された本で、やはりEPR相関が登場します。

ある粒子の運動量と位置を同時に確定することはできない、そしてそこに隠れた変数などはないのだ、という不確定性原理が正しいのであれば、ある時点で二つに分裂した粒子はどうなのか。たとえばある粒子が二つに分裂したとするならば、それぞれの粒子が全く同じ物質ならば、両方の運動量は同じになる。片方で運動量を、もう一方で位置を測定すればいいではないか。それとも、片方を測定した瞬間に、たとえば分裂してから百光年離れた彼方で、光速を超えてそれが確定するとでも言うのか?

というのが量子力学の不確定性を受け入れられなかったアインシュタイン・ポドルフスキー・ローゼンの思考実験でした。

僕は、高校生くらいの頃図書館で見つけた量子と混沌 (地人選書)という本で、EPR相関を知ったのでした。ほぼ同時に読んでいたフレイザーの金枝篇とリンクして非常に強い印象を受けたのを覚えています。金枝編は人類学の本ですが、そのときに印象に残ったのは、あるものの属性は別のあるものに感染呪術によって転移させることができる、そしてその影響は、離れていても続くのだ、という部分です。

EPR相関もラッセルのパラドックスもゲーデルの不完全性定理も、人間の原始的な部分が感応するし、だから面白いのですが、ソーカル事件のせいか、ニューエイジのうさんくささのせいか、ゲーデルや量子力学の話を思想的に扱おうとすると、プロ理系とプロ文系の両方に馬鹿にされてしまうようです。
そういえば、最近ソーカルの弟子が思弁的唯物論を掲げて、ちょっと話題にもなったのも日本では2016年なのでした。「有限性のあとで」も2016年に勢いで買った本の一つですが、これはいらない本でした。筆者の言う、「相関主義を克服した科学」なんてものが、いったいどこにあるのかと。(ブラウアーやゲーデルを無視してカントールを援用するあたりはソーカルの再来みたいに見えます)

話がそれました。
「クリングゾールをさがして」は、クリングゾールという仮名がつけられた、ナチスの顧問科学者を探す、いわば探偵小説です。クリングゾールは実在するのか、それとも架空の存在なのか。主人公のフランシス・ベーコン(同姓同名)は、ドイツに渡って、アンチナチスの数学者の協力を受けて、ハイゼンベルグやボーア、パウリなどそうそうたる物理学者へのインタビューをし、正体を突き止めようとします。インタビューや背景にはゲーム理論や相対性理論、不確定性原理や、不完全性定理が練り込まれます。

’’仮に、ゲーデルの定理に従って、いかなる公理系も論証不能の命題を含むのであれば、仮に、アインシュタインの相対性理論に従って、もはや絶対的な時空が存在しないのであれば、仮に、量子力学に従って、もはや科学は宇宙の曖昧で不確かな概要を与えるものでしかないなら、仮に、不確定性原理に従って。もはや因果関係が未来を確実の予言するために役立たないのであれば、そして仮に個々人が個々の真実を持っているだけなのであれば、そのときには、原子と同じ物質で形作られた私たちは皆、不確かさでできあがっている。私たちはパラドックスと不可能性の結果である。・・・”

上でも触れましたが、こうしたものはニューエイジで不幸な扱われしまったせいか、必ずうさんくさくなってしまいます。それでもこの「うさんくささ」を扱えるから、小説は価値があるのです。
やはり今年読んだいま世界の哲学者が考えていることがちょっと退屈なのは、「学者」の考えたことを書かなければならないからなのでしょう。(恐ろしいことに、この本に登場する小説家はアシモフくらいです)意識や生物としての人間の未来を考える際に、イーガンを出せないほどサニタイズされなければならない「雰囲気」はどうにかしないと。

ソーシャルネットの生態系に適応してニュースが扇動的になり、バズるためにフェイクを混ぜ、一方視覚体験も自由に捏造できるようになり、ビッグデータと機械学習は一年でこれまでの数十年以上の進歩が起きている時代です。それなのに、意識の方は全然準備ができていません。そういう意味で、ピックアップした本はポスト真実の時代に、そこそこぴったりな気がしてきました。

アフィリエイトもかねて10冊くらい挙げようとおもってたんですが(タイトルも釣りっぽいですが)一区切りついたので。
最近初めて知った野崎まど、とか芝村裕吏とかもかなり面白かったんですが、また今度。